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子供の頃の最大の謎は、
「ありきたりで平穏な生活の幸せ」というもの。

 

小学生の頃、私はよく2時間ドラマ
(「湯けむり殺人」的なやつですね)を観ていました。

ありがちパターンが、
犯人がいまいちパッとしない女性というストーリー。

風が強い岬で追い詰められたそんな犯人の女性が、
問わず語りでよく言うセリフがありました。

「私は憎かったの!
やっと手に入れた穏やかな生活が
あいつ(被害者ですね)に奪われて!」
で、回想シーン。

家族で食事をするシーン。

子供を遊ばせるシーン。

子供が何かをドジっちゃって、
夫婦で目を合わせて微笑むシーン。

そして、岬のシーンに戻って、
「ささやかなあの時間。
家族で過ごしたあの時間が
私には幸せだったの!」で号泣。


コレ!
これがどうにも子供の頃には
わからなかったわけです。

子供の頃に考える幸せというものは、
マハラジャ級の生活が
「幸せ」と言うんじゃないのかな、と。

つまり、豪勢な食事や金銀財宝、
エキゾチックな踊り子が踊っていて、
絶世の美女がいて、
そんで宮殿に住んでいる的なことを
「幸せ」と言うんじゃないかと思っていたわけです。

だから、家族でちゃぶ台で
ご飯を食べるシーンとか、
旦那さんや子供たちの服を
物干し台で干すシーンとか、
家族で買い物に行くシーンとか、
そんなもののどこが幸せなんだと。

幸せというにはあまりにも日常的、
悪く言えば貧乏くさい、
そんな風に思っていたわけです。

だから、子供の時には
そのありきたりな生活の幸せというものが、
心底不明で謎だったわけです。

 

で、時は経ち、
大人になってみて思ったわけですね。
浅いな~、ガキだな~って。

2時間ドラマは
確かに安普請のドラマではあるのですが、
ただ日常のそういうことを、
犯罪の動機になるくらいに
何にも代えがたい幸せとして
描いた部分においては、
的を射ているのではないのかなと。

 

だから、私、たまに思うんです。

保育園の帰りに娘を自転車に乗せて、
二人で夕焼けの中を走っている時に、
「うん!確かに今、俺は幸せだ」と。

小学生の頃の私が聞いたら、
気は確かかレベルです。

まさか自分が夕日の中でママチャリを漕いで
「俺は幸せだ」なんて叫んでいるなんて
(もちろんホントに叫んでなんかいませんが)、
もう振り切れるほどガッカリです。

 

でも、違うんですね。

つまり、家族の幸せというものは、
金銀財宝や溢れるような豪勢な料理や、
素晴らしい宮殿なんかじゃないってことです。

これこそ、実にありふれた結論。

でも、たぶんこのことについて、
異論を言われる方は
少ないんじゃないかなと思います。

もちろん夕日のママチャリで
幸せを実感して叫ぶようなアホな人は
実際にはいないと思いますが、
まあ何となくは
ご理解いただけるのではないのかなと思います。

 

さて。

で、何で今回こんなことを
考えたのかというと、
日々流れてくるSNSの投稿を眺めていて、
ふと思ったからです。

そこに出てくる写真やテキストは、
豪勢な料理や豪華な旅館やホテル、
オシャレな場所の写真などなど。

記念日やたまにうれしいことがあって、
そんな写真を載せるのなら、
その人の楽しい気持ちも感じることができますが、
毎回、マハラジャ的な写真を
一生懸命あげている人を見ると、
その人にとっての「幸せ」って一体何なんだろうなあ、
なんて思ってしまったわけです。

 

とは言え、それに対抗して、
私の幸せ実感ツールである
愛車のママチャリの写真をSNSにあげたところで、
「は?」と思われるのがオチです。

だから、「幸せ」を
誰にでも分かりやすく表現するために、
やっぱりちょっと見栄っ張りな写真を
あげなくてはいけないのかなと、
思ったりもしつつ……。

「幸せ」を表現することって実は難しいなあ、
なんてことも考えるわけです。

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