Pocket

何度かこのブログでもGoogleのサービスについてご紹介していますが、ブログなどのサイトを運営されている方には一般的なGoogleウェブマスターツールというサービスがあります。

このサービスはサイト運営にいろいろと使えるものなのですが、今回ご紹介したいのはこのサービスの使い方ではありません(って生前整理のブログで当たり前ですね……)。

このサービスでは自分のサイトで頻出しているキーワードを知ることができるのですが、この「家族で考えるコト研究所」のブログでは上位5位と6位に「生前」という言葉と「整理」という言葉が出てきます(ちなみに1位は「家族」です)。

私が「生前整理」や「親の家の片づけ」についてブログ記事を掲載しているので、当たり前と言えば当たり前の結果なのですが、私は自分が頻繁に使っているこの「生前整理」という言葉について、以前よりどうにも違和感を覚えています。

 

その違和感の正体は単純です。

“語感”です。

「生前」という言葉が仏教由来の言葉であるとかないとか、辞書的な意味でどうだとか、と言ったこととは別にして、私には以前よりこの言葉がどうしても「死」を前提としているような気がしてならないのです。

“語感”というものは多分に主観的なものでしょうから、はっきり言えばこれは私だけの問題なのかもしれません。

が、言葉はそれが使われるシーンによって、辞書的で論理的な“割り切れる”意味の他に、感覚的で曖昧な“割り切れない”意味も付加されてくると思います。

例えば、「生前」という言葉が使われるシーンで思いつくのは「故人は生前……でした」とか、「生前のご厚誼に……」など、どうしても亡くなった際に使われることが多いため、なんとなく「死」という言葉を匂わせる、もしくは前提にしているような印象があるのです。

 

一方でライフエンディングに関わることが、タブー視されず当たり前になりつつある現代においては、「生前○○」と言った言葉はよく目にするようになりましたし、その中の「生前整理」という言葉もある程度の市民権を得る言葉になってきているはずです。

そのため、
「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」
とも言うように、生きていること自体が「死」へ向かっているということを考えると、「生前整理」という言葉が「死」を前提としている、そして想起させる、ということに関しては、そこまで敏感になる必要が実はない事なのかもしれません。

 

ただ、私が「生前整理」や「親の家の片づけ」について諸々をお伝えする時の「目的」とずれてくるところに、その“語感”の違和感の根本があります。

私は「生前整理」や「親の家の片づけ」は、家族や社会との新しいコミュニケーションの形であると考えています。

私がこのテーマでブログを書いている目的は、家族の中で誰か一人だけが「生前整理」や「親の家の片づけ」に向き合うのではなく、家族の中でできるだけ多くの人と一緒に考えたり、実践したりしてほしいからです。

「生前整理」や「親の家の片づけ」は重く根深いことですので、それを誰かの肩にだけ担がせるやり方は、家族経営の在り方としてあまりにもさびしく辛いものだと考えているからです。

「生前整理」や「親の家の片づけ」といった「新しいコミュニケーションの形」を通して、家族が新たなステージになれば、見えてくるものも違ってくるはずですし、解決できることも、やれることも変わってくるはずです。

私はそれをお伝えしたいと思っています。

そのため、「死」を感じさせてしまう「生前」という言葉だと、その目的に対してどうにも納まりが悪い言葉になってしまうというわけです。

 

そこに存在している現実を直視せず、タブーから目を逸らしているというお声もあるかもしれませんが、私がお伝えしたい「生前整理」や「親の家の片づけ」は家族のどなたかの「死」を前提にしたものではありません。

あくまでも「死」は、家族でその行動を取った先にあるものだと考えています。

 

私は「生前整理」を始めるのが、

「片付け」のことであっても、

「自分史」をつくることであっても、

さらには、

「葬儀」のことを考えることであっても、

「エンディングノート」を書くことであっても、

「相続」の対策をすることであっても、

それはあくまでも今を生きるご自分と家族のためにある行動・行為だと考えています。

 

 

ということで、「生前整理」や「親の家の片づけ」はどなたでも、どのご家族でも必ずやるべきものであるという考えは変わることはありません。

ですが、私にとって、今後「生前整理」という言葉の違和感との決着はいずれ付けないといけないように思っているのです。

Pocket