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私は当然のことながら、戦争を知りません。

私の両親も戦後まもないころに生まれたので、直接的な体験をしていません。

私は一緒に暮らす家族以外から「聞くか、読むか、観る」=「伝えてもらい、語り継いでもらう」かしなければ、戦争のことをまったく知ることができません。

 

そんな私は戦争については「恐怖」しかありません。

自分の家族が不可避な力によって、その生活が引き裂かれることを考えると、「恐怖」しかないと思っています。

そのため、「子供の頃の家族(実家)」と「今現在の家族」で戦争を体験していないことが、本当にありがたく幸運なことだと思えます。

 

私は戦争のことを考えるとき、思考がまったく飛躍しません。

イデオロギー、大義、抑止論、脅威、利権、パワーバランス、それらすべてのことに思いを至らせることができません。

目の前の自分の家族のことしか、頭になくなります。

大局的なことよりも時勢的なことよりも、最も微視的な「家族のこと」しか考えられなくなります。

 

先日、自分史フェスティバル2015に先駆けたプレイベントである『戦後70年、私と家族の記録』に参加しました。

そこで語られたのは、個人と家族の視点での戦争でした。

特に映像は強く重く語りかけてきます。

ある方がお持ちだった立派な雛壇の前に座る可愛らしい着物を着た小さな女の子の写真を拝見し、私は全身に鳥肌が立ちました。

その方は戦災孤児で、その雛壇の写真からわずか数年後には戦争によってすべてが壊され、過酷な苦しく辛い経験をすることになってしまうのです。

私は戦争によってもたらされる本当にむごい現実を自分の家族に投射して、恐ろしさのあまりに鳥肌が立ったのです。

 

私は戦争を語っていただくということは、そういったことなのではないかと思っています。

ある方の戦争体験、ある家族の戦争体験に接する時、それらを今を生きる自分と自分の家族に投射して「恐怖」することこそ、本当に戦争を語り継いでいただいたことになるのではないかと思っています。

 

100人の方の戦争体験、100家族の戦争体験、それらを伝え語り継ぐことができるのが、自分史であり、家族史のはずです。

 

戦争のことについて、どんな政治家が語っても、どんなイデオロギーで語られても、私は自分と自分の家族に思いを馳せて恐怖することはありません。

戦争に対して本当に恐ろしく思うのは戦争体験が綴られた自分史と家族史なのです。

 

昨日で戦後70年が経ってしまいました。

その時の恐ろしさやむごたらしさが風化せぬよう、「戦争体験」をお持ちの方々の言葉が自分と自分の家族を守ろうと思う人に伝わっていくことこそが、真に大切なのではないかと思うのでした。

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