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私の息子は無類の将棋好きです。

映画「王将」の阪妻くらいと言えば
どれくらい好きかお分かりになるでしょうか
(って、例えが古すぎですが……)。

ちなみに言うと、
私は別に将棋はたいして好きでも上手でもないです。

息子に将棋を教えたのは私なのですが、
今では息子の方がうまくなってしまっています。

どうも私の脳みそは
何手か先を読めないようにできているようで、
将棋がうまくなるには致命的です。

 

さて、そんな将棋好きの息子からの懇願で、
最近父子で行っている日課は“朝将棋”。

毎朝、今までよりも40分ほど早起きして、
息子と将棋を指すのですが、
とどのつまり息子が新しく覚えた陣形の実験台になっているという
悲しい現実がそこにはあります。

息子は勝手に将棋の本を熟読しているので、
もはや将棋で私が教えることは全然ないのですが、
唯一その将棋の時間に厳しく教えていることがあります。

それは、礼儀です。

礼儀と失礼の関係

今後、息子はいろんな方々と
将棋の対局を行うことになるでしょうから、
その時に失礼にならないよう、
そして息子が困らないように礼儀を厳しく教えています。

といっても、難しいことはなく、

  • 始まりと終わりに挨拶をする
  • 人と話している時や対局中に欠伸(あくび)をしない
  • 相手の指し手を評価しない
  • 勝ったからといってはしゃがない
    (あ、いえ決して父として悔しいとかそういうことではなく……)

といった程度のものです。

これは大人にとってみれば、
前田のクラッカー並み(古)のことなのですが、
まだ小学1年生坊主には
なかなか面白いことに理解しづらい部分があるようです。

 

例えば、欠伸(あくび)。

朝早起きしているから生理現象の欠伸(あくび)は
出てもおかしくはないわけです。

そのため、人とコミュニケーションを取るという文脈の中で、
その生理現象がなぜ失礼にあたるのか、
どうにも彼には理解が難しいようです。

 

実はこのことを突き詰めて考えると、
礼儀についてとても面白いことがわかってきます。

なぜ欠伸(あくび)が失礼にあたるのか。

これを皆さんでしたらハナタレ坊主にどう教えますか?

欠伸(あくび)は眠かったり、
気持ちが弛緩しているときに出るものだから、
相手に失礼にあたる、と教えますか?

でも、この説明では一足飛ばしかもしれません。

眠くて気持ちが弛緩していると
どうして礼を失することになるのでしょうか
(むしろリラックスして対局を楽しんでいるのだからいいかも)。

相手を侮っているように見えるから?

馬鹿にしているように見えるから?

とは言っても、息子の場合、
私を侮っているわけでも
馬鹿にしているわけでもありません(と祈りたいです……)。

もしもわが家が落語の“あくび指南”の家元だったら、
むしろ息子は褒められるわけで、
結局のところ、「人とコミュニケーション中の欠伸(あくび)=失礼」という
図式をうまく説明することができないのです。

礼儀とは何か

では、礼儀とはいったい何なのでしょうか。

「ある文化におけるコミュニケーションのための様式や型」と
私は考えています。

ということは、
互いにその様式や型を知っていて初めて礼儀というのは
機能するものなのです。

この「互いに」がミソです。

新1年生に対局中の礼儀を教えるのも、
新人研修でビジネスマナーを教えるのも、
様式や型を教えて、
ある文化にぶち込もうというものです。

ちょっと言葉を悪く言えば、
「互いに分かるように洗脳する」ということです。

そのシチュエーションで
その様式・型(=礼儀)がどうして必要なのか
徹底的に洗脳するのです。

欠伸(あくび)は失礼、欠伸(あくび)は失礼、欠伸(あくび)は失礼、欠伸(あくび)は失礼、欠伸(あくび)は失礼、欠伸(あくび)は失礼、欠伸(あくび)は失礼、欠伸(あくび)は失礼、欠伸(あくび)は失礼

って感じで、
ゲシュタルト崩壊させてみたら、
本当に失礼な気になってきませんか?

そこに、欠伸(あくび)がどうして失礼なのか、
なんて理由も理屈もいりません。

礼儀とは、本来的には
「コミュニケーションを円滑にするための知恵」
という程度のものが高められ練られ、
様式や型といったものに昇華(?)していったというわけです
(あ、もしかしたら形骸化したのかもしれないです。
様式や型をどんどんと難しくしたら、
専売特許で売り物になりますしね……)。

礼儀の教え方

さて、私たちは
「社会的文脈に応じて適切な振る舞いをする=礼儀を弁える(わきまえる)」ことがなければ、
その社会や文化で生きづらくなってしまうことは、
どなたも否定できるものではないと思います。

ということで、
新1年生や新入社員に適切な振る舞いとしての礼儀を教えることは、
その文化でサバイバルするための道・方法を
教えてあげる非常に重要なことです。

 

ですが、礼儀を教える側の人間には
心構えが必要だと思っています。

礼儀を教える人間が、
その礼儀について深く考えていなければ、
ただの形骸化した様式や型を教えるだけの
“論語読みの論語知らず”にもなりかねない、ということ。

そして、深く相手を敬うことがない人間が教える礼儀ほど、
本末転倒なバカバカしいものはない、
ということも肝に銘じるべきだと思います。

 

ということを考えつつ、
今日もまた将棋で負けてしまう父親なのでした。

(礼儀や失礼といえば、
その昔、帰省の際に遊びに行った父の田舎で
父親よりも上座に座ってしまい、
親戚のおばちゃんたちから散々嫌味を言われたことがあります。
まあ、私も父も屁でもなかったわけですが、
「同じ文化」の中にいなければ、
礼儀なんて所詮そんなものかもしれません。)

「礼儀とは何か」の第二弾の記事はこちら → 「礼儀と才能」

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