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先日、ある講座で講師を務めさせていただいていた時のことです。

ご自分やご家族のヒストリーをお伺いするセッションで、ある受講生の方が、ご自分のことやご実家のご家族との“思い出”を丹念にワークシートに記入いただいていました。

とても熱心にご記入いただき、講師の位置からもワークシートがしっかりと文字で埋まっていることが確認できます。

しかしワークシートが進むと、明らかに文字の量がこれまでと違う箇所が出てきました。

二言、三言くらいしか書いておられません。

ワークシートのその部分は、今現在一緒に生活をしているご家族との“思い出”をお伺いするところでした。

 

セッションが終わった後、そのことについてお伺いしてみました。

すると、お父様やお母様、ご姉妹のことについては“思い出”として書くことができるが、今をともに生活しているご家族との“思い出”については、どこの時点をもって“思い出”としていいか分からずに、とても書きにくかったとのことです。

その他のセッションでその方が「今、一緒に生活しているご家族」をどれだけ大切にしておられるか、日々どれだけたくさんのことをお考えになってご家族に接していらっしゃるかが、とてもよくわかります。

ですが、そういった日々の想いを“思い出”という言葉で捉えることが難しい、ということだったわけです。

 

自分史は連続、家族史は非連続

私たちの人生は「今」の積み重ねで連綿と築き上げてきたものです。

自分の人生で他の時期から断絶して孤立している時期は、決してありません。

些細なことが積み重なり、それが行動につながり、その行動の結果が次の些細なことを積み重ねて、の繰り返しです。

 

ですが、今回の受講生の方の感想から、私は「家族のコトで考えた時、家族は必ずしも連続してはいないのではないだろうか」ということに改めて気づかされました。

自分から見た家族とは、所属していたり、離れていたり、そしてまた所属したりと、時には空白・断絶している時期もありえるということです。

自分自身は生きている限り連綿と続いていきますが、その自分が所属する家族の構成には、その都度出入りがあり、変化していくのです。

ちょっと寂しく聞こえるかもしれませんが、実は当たり前の真実なのかもしれません。

 

かつて一緒に食卓を囲んだ父・母。

時が経ち、子供たちは家を出て、それぞれの家族を築きます。

子供たちが自分の伴侶と子供たちと食卓を囲んでいるのと同じ時、かつての実家では父と母の二人が食卓を挟んでいる。

そして、また別の場所では、兄弟がそれぞれの伴侶と食卓を囲んでいる。

ある家族が分裂し、新しい家族がつくられ、そしてまたその家族が分裂する。

家族はそんなことの繰り返しなわけです。

 

ということは、“思い出”として語ることのできる家族とは、現在はもうその当時の形として存在していない家族と言い換えることができるのかもしれません。

「生前整理」や「親の家の片づけ」で必要な弁え(わきまえ)

「生前整理」や「親の家の片づけ」とは、すでに生活を別にしているかつての家族との接触です。

すでにそのかつての家族が“思い出”の範疇に入っている以上、そこには今現在の家族との接触とは違う弁え(わきまえ)が必要になってくるはずです。

 

自分の人生は連続です。記憶をたどれば今の生活の理由が見えてきます。

ですが、かつての家族=親の家は、自分にとってもうすでに過去のものです。

自分が出た後のご両親の生活と日常は、完全には知ることができません。

ご両親の「生前整理」や「親の家の片づけ」を考える時、その生活を別にした期間をいかに想像することができるか、寄り添うことができるか、大切にしてあげることができるかが非常に重要なこと=弁え(わきまえ)だと思うのです。

 

今回の講義でそういったことに改めて気づかせてくださった受講生の方との出会いは、私にとって大変貴重なものでした。

この場をお借りして、その受講生の方にお礼をお伝えしたいと思います。

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