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前回のブログでは、
新1年生の“授業参観”に参加したことから
“小1支援員”の方と「小1プロブレム」の存在を
はじめて知ったことをご紹介しました。

 

そこで、「小1プロブレム」について少し調べたところ、
およそ1990年代後半から
頻繁に取り上げられるようになった言葉だということがわかりました。

その流れを受けて、
私の住む地域では対策の一環として
“小1支援員”の方による授業サポートの導入に踏み切ったようです。

 

ちなみに私は小1の頃、
どうして急に勉強をしなければいけなくなったのかわかりませんでしたし、
周りの児童(友達)が急に大人びたように感じて、
取り残されたように感じていました。

そして、なにより1コマ45分の授業がまるで永遠のように感じ、
終わる時間ばかり気にして、
授業を面白いと思ったことは正直なかったです。

理科の授業で植えた朝顔の種が発芽して双葉が出ようと、
「山」や「川」の漢字の成り立ちを知っても、
リンゴとミカンの数を足しても、
まったく興味がなく面白くもありませんでした。

ということで、
10分休みに校庭のブランコに乗りに行って、
休み時間の終了に気付かず、
先生に教室へ連れ戻されるというようなこともありました。

 

つまり、多かれ少なかれ、新1年生のクラスでは、
過去にも似たようなことがあったわけです。
(まあ、お前が変なんだよ、と言われればそれまでですが……)

 

そこで私が感じた疑問は2点です。

過去にも似たような状況があったにも関わらず、
なぜこの言葉が1990年代後半のタイミングから
取り上げられ始めたのか。

そして、過去と現在の問題に
根本的な違いがあるのかどうか、ということです。

「学級崩壊」に引きずられて問題視されるようになった?

さて、「小1プロブレム」を調べてみると、
その言葉の上位の状況・状態として、
「学級崩壊」があることがわかります。

参考:ウィキペディア「学級崩壊」

その二つは分けて考えられるべきことでしょうから
(新1年生と高学年の児童では、発育も状況も大きく異なるため)、
同じように語ることは望ましくないことだと思います。

ただ、「学級崩壊」がメディアを賑わせ始めた時期と、
「小1プロブレム」という言葉が頻出して使われるようになった時期とが
ほぼ同時期(1990年代後半)であることから、
どうやら「学級崩壊」が先行してメディアを賑わせ、
それに引きずられる形で「小1プロブレム」が
注目を浴び始めたのかもしれません。

確かに「小1プロブレム」よりも
「学級崩壊」という言葉の方が、
大きくメディアを賑わせていたように記憶しています。

ということで、
恐らく昔も今も「小1プロブレム」は存在していたのですが、
それに名前を付けて報道することにより、
問題が浮き彫りになったという図式です。

それ自体は社会の木鐸としての報道の在り方として、
望ましい図式だと思います。

 

じゃあ、その時期に、
メディアが大々的にその問題を
取り上げることになった契機というのはあるのでしょうか。

実は日本の教育の形を大きく変える出来事が、
その時期に並行して起こっています。

「ゆとり教育」の実質的な開始です。

参考:ウィキペディア「ゆとり教育」

「ゆとり教育」については、賛否が取り上げられていますし、
恐らく今現在もその評価は立場によってまちまちだと思われます。

そして、ここからは私の推測の域を出ないのですが、
もしもこの時期、「ゆとり教育」に何らかの反対の立場の方が、
「ゆとり教育」の不結果の一つとして、
「学級崩壊」や「小1プロブレム」を声高に取り上げたら……。

 

とかく現代の教育の問題として取り上げられている「小1プロブレム」が、
実は過去からの事象にただ単純に名前を付けて、
世に出し世間に意識付けただけの事なのかもしれないという推測です。
(まあ、理由はどうあれです)

 

さて、だいたいの概要がわかり、
私の仮説どおりだったとしても、
そうでなかったとしても、
「小1プロブレム」に関して、
親の立場として一体何ができるのでしょうか。

例え、世の中で急に取り上げられるようになった言葉だとしても、
教育政策の賛否の立場から生まれた言葉だとしても、
現実の問題としてそこにあるのでしたら、
児童に一番近いところにいる親ができることを考えなくてはいけません。

次回は「小1プロブレム」で
親ができることは何かを考えていきたいと思います。

 

<参考文献>※以下のwebサイトはすべて2015/6/16に閲覧した。

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