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じゃんけんで鬼ごっこの鬼を決めたことは、誰でもありますよね。

仲の良い子と同じ班になるために、班分けのくじ引きに運をかけたこともありますよね。

給食のラスト一個のデザートをゲットするために、アミダクジで友達と競ったこともありますよね。

 

じゃんけんやくじ、アミダクジは、その勝敗結果を「恨みっこなし」にする素晴らしいシステムです(「恨みっこなし」のくせして、負けた子がたまに泣き出すハプニングもあったりしましたが……)。

 

このシステムは、自分自身が積極的にその場にいれば(鬼ごっこを楽しむためだったり、デザートを食べたかったり)、大変機能的です。

ただし、消極的・受動的な形でその場にいる時は、恐ろしく残酷なシステムにもなります……。

保護者が参加しなくてはいけない活動

子供が通っている保育園や学校では、親がその教育や保育をサポートしたりシェアしたりする活動が、どこでも必ずあると思います。

父母会や保護者会、PTAがそれに当たります。

お子さんの教育に非常に熱心でその活動に積極的に協力している方にとっては、今回の内容は少し的外れになるかもしれません。

しかし、通っている間に一度は担当しなくてはいけないという暗黙(たまに明文化されていますが)のルールがあるために、消極的・受動的に参加しているという方も多いのではないでしょうか。

 

当たり前のことですが、家族や家庭の状況は家によってまったく違います。

シングルファーザー・マザーの方もいらっしゃれば、ご家族の介護や通院付き添いのある方もいらっしゃいます。

それでも、いつも子供がお世話になっているとの思いから、もしかしたらかなり無理をして、どうにか参加しようとしているのかもしれません。

そして、そういった家族・家庭ごとの背景を「すべてないこと」にして、一見「平等な負担」と「公平な選出」になっているかのように演出するのが、前述した残酷なシステムなのです。

見せかけの「公平な選出」と「平等な負担」

父母会や保護者会、PTAでは、○○係や○○班長といった役割には、基本的に誰も手を挙げません。

日本人的な横並び意識なのか、手を挙げることで目立つことを避けるためか、それは分かりませんが、半ば儀式のように毎回じゃんけんやくじ引きで係や代表を選出する流れに突入していきます。

そして、不運なことにまったく望んでいないのに、当たってしまう方がいらっしゃいます。

 

その場では、「公平に」くじをして、「平等に」仕事を分かち合ったという空気が作りあげられていますので、誰も抗うことができません。

個々の状況を訴えることもできない空気が完全にできあがってしまっているのです。

 

しかし……。

これは、本当に「公平」で「平等」なことなのでしょうか。

ある家庭では比較的楽に担当できることでも、別の家庭では本当にきつく辛い担当かも知れないことがまったく考慮されないこのシステムは、本当に「あり」なものなのか。

このような状況で非常に困られたシングルマザーの方がいらっしゃったということを、私は何度か見たり聞いたりしたことがあります。

彼女たちはくじに当たってしまった瞬間、青ざめたそうです。

 

青ざめた彼女たちに救いの手を差し伸べる友人の保護者の方もいらっしゃるシーンもあれば、その場で誰も声を出さず、ただただ彼女一人だけがオロオロとしてしまっているというシーンもあったと聞きます。

 

大変気の毒なことですが、その青ざめた方々の苦しみもその場で声を発することができなかった方々も、容易に想像できます。

残酷な「平等」システムによって、その結果に異議申し立てをしてはいけいない、という生来守ってきたルールにその場の全員が絡め取られているからです

「平等」システムを発動させない方法

私は、はっきりと言うと、そんな「公平な」選び方も「平等な」分担も欺瞞でしかない、と考えています。

では、どうすればいいのでしょうか。

私はそういった活動に、「消極的」かつ「受動的」に参加する人がいないようにすることが、究極的な解決だと考えます。

通学・通園中に少なくとも1回は担当しなくてはいけないというルールを変えるべきです。

それでは、保護者の活動に支障が出てきてしまう、とおっしゃる方もいらっしゃるでしょう。

有志の集まりでは、負担を「平等に」することができないと言われるかもしれません。

ですが、それはそれでいいのではないでしょうか。

恐らくPTAなどの保護者の活動が立ち上がった昭和期の頃と比べて、家族の在り方もかなり多様なものになってきているはずです。

それを旧態依然とした「平等・公平」ルールに当て嵌めて運営しようとすること自体が間違いなのではないでしょうか。

どの地域でも積極的に保護者の活動に参加される方々が必ずいらっしゃると思います。

そのような方と前述した様々な家庭の方とを、同じシステムで負担を按分するのは、あまりにも酷なように思うのです。

 

もしも、そのようなことが許されない、任意で有志の活動では目的を達成できない、ということであれば、家庭の多様性を許容した上でのお仕事分担がなされるべきです。

そして、その場合は、誰にも有無を言わせない見せかけの「公平・平等」システムは採用すべきではないです。

ある方のお仕事の負担が苦しい背景、その訳を可能な範囲でその場で共有し、話し合いによって割り振っていくべきです。

 

それでも担当が決まらないということであれば、そもそもその仕事が本当に必要なのか、根本的なところから話し合い、業務の無駄とムラを解消することに注力すべきなのかもしれません(ただし、これは組織の運営論や業務フローの見直しになりますので、また別の機会でのお話になります)。

 

以上より、前回も書きましたが、「平等」はその言葉を発する側の人間の幻想にしか過ぎないと、私は思っています。

「平等」と言えば、途端に耳障り良くなるその言葉は、私は嫌いです。

相手のことを想像もしないで発せられる「平等」は、「暴力」と同じくらいに相手を傷つけ、窮地に立たせてしまう可能性のある危険なことなのだと認識すべきなのではないでしょうか。

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