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「我が家では家事は夫婦で平等に分担しています」
一見、先進的で相互理解溢れるご夫婦のような感じを受ける言葉ですよね。

日本の現状では残念ながら多くの家事を負担しているだろう女性にとって、ホント、これが実現できていれば、非常に助かるはずです。

 

確かにそうです。そうなんですが……。

この言葉には決定的な「嘘」、もしくは「誤解」が入っています。

 

それは、「平等に」という部分です。

家事の分担は多くのご家庭で行われていることだと思います。

実際に、我が家でもそうです(我が家の家事分担方法は、以前のブログでも取り上げました)。

ただ、この「平等に」は残念ながら、絶対にありえないのです。

 

と言いますのも、この言葉を発するのが、夫側でも妻側でもどちらでもいいのですが、それはあくまでも片方からみた「平等」であるということです。

要するに相手側に立ってみれば、果たしてそれが本当に「平等である」かどうかは、わかりません。

 

「いやいや、私たち夫婦はツーカーだから、わざわざ言葉に出さなくても分かりあっているんだよ」

と思うのは、恐らく深刻な思い違いです。

お互いの脳みそと脳みそをプラグでつないで、思考も記憶も共有しない限りは、真のツーカーなんてものはあり得ません。

 

そして、この「平等」を発する時、何をもって「平等」と言っているのでしょうか。

家事にかけた「時間」でしょうか。

家事にかかった「心理的な負担」でしょうか。

家事をする時に消費した「カロリー」でしょうか。

つまり、かくもあいまいな根拠の上にこの危うい言葉「平等」が存在しているのです。

 

同じ家事であったとしても、夏場と冬場の皿洗いを例にとっても、手荒れの状態次第では、比較的楽にもなり、刺すような痛みを伴う苦行のようにもなります。

保育園の送り迎えという家事でも、体力のある方にとっては楽でも、体力のない方にとっては筋肉痛ギリギリの家事かもしれません。

 

さて、それではできる限り夫婦が納得した形の「平等な」家事分担に近づけるためには、どういったことができるのでしょうか。

それは、

できる限り自分のことを置いておいて、相手の立場になってみる

という、実に“学級目標”くらい当たり前のことに落ち着きます。

ですが、確かに当たり前ではあるのですが、「平等」という言葉を振りかざす人間ほど、自分を基準にしてものを語っている可能性が高いものです。

あかぎれしてしまった指、繁忙期なのに保育園の迎えに行っている、など、いつもと同じ家事でも状況に応じてその負担は心理的にも体力的にも変わってきます。

それを夫婦相互で慮ってあげることこそ、「平等」という言葉でごまかさない本当の家事分担なのかもしれません。

 

どうして私がこのように「平等」に目くじらを立てるのかというと、それはある出来事を目撃したことがたびたびあったからです。

その出来事のご紹介はまた次回に譲ろうと思います(もったいぶっているようですが……)。

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